JR東日本
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主な鉄道事故(1950〜2010年)

事故発生年月日 事故名 事故内容
1950年(昭和25年)02月09日 湘南電車火災事故 東海道本線「保土ヶ谷〜戸塚」駅間で80系電車(14両編成)の試運転列車が走行中に13両目のモハ80027のパンタグラフから電弧を発した為、車掌が非常ブレーキ(車掌弁)を扱い停車しましたが、その際に架線が切断されて最後尾のクハ86017に接触。同車と隣のモハ80027が炎上し焼失しました。原因は、風により飛んできた導体の異物がパンタグラフに付き、パンタグラフが接地されたことによるものと推定されました。また現場近くの変電所が事故電流を検知せず火災発生後も約25分にわたり通電を続けていた為、消防車からの放水による消火作業が出来なかった事が被害を拡大する要因となりました。そのため事故後、通電中の1500V架線に対する放水の試験が施され、水質を考慮し筒口を接地することで放水が可能であるとされました。
1951年(昭和26年)04月24日 桜木町事故
(国鉄戦後五大事故)
京浜線の電車(モハ63形、5両編成1271B列車)が、桜木町駅構内で、碍子(がいし)交換工事中に誤って切断され、垂れ下がっていた架線に接触し、電流の地絡により炎上しました。先頭車が全焼、2両目が半焼し、死者106名、重傷者92名を出す大事故となりました。その当時、京浜線電車に使用していた戦時設計の63系の粗悪な構造が死傷者を多くしたとして、国電の安全対策強化の契機となりました。
1952年(昭和27年)06月18日 日暮里駅構内乗客転落事故 国鉄「日暮里」駅構内の南跨線橋の羽目板が乗客の重量に耐え切れなくなり破損、数十人が7m下の線路に転落しました。その時に通りかかった京浜東北線浦和行き電車にはねられ8名が死亡、5名が重軽傷を負いました。事故原因は跨線橋(1928年建設)が老朽化した事と、当日の未明に上野駅構内で信号所火災が発生して東北本線の上り列車が、日暮里に臨時停車していたことに加え、並行する京浜東北線で6時56分に車軸が破損するトラブルがあって一時運行を中止していた為、普段の倍以上の乗客で混雑したこともあったという事です。
1962年(昭和37年)05月03日 三河島事故
(国鉄戦後五大事故)
常磐線「三河島駅」構内で貨物線から下り本線に進入しようとした田端操車場発水戸行の下り貨物列車(蒸気機関車牽引)が、停止信号を冒進して安全側線に進入し脱線しました。先頭の機関車が下り本線を支障した直後に三河島駅を1分遅れで出発し、下り本線を進行してきた上野発取手行きの下り電車と衝突し、上り本線を支障しました。約6分後、さらにその現場に上野行きの上り電車が高速で突入し、最初の衝突時の多数の避難乗客を巻き込みながら、双方の先頭車両は原形を留めず粉砕され、一部の車両が築堤下の小屋に突っ込み、死者160名を出す大事故になってしまいました。列車や設備、事後直後の保安対策が十分に行われなかったことが原因とされ、その後、自動列車停止装置(ATS)や列車無線の設置を推進する事になりました。
1962年(昭和37年)08月07日 南武線踏切事故 南武線「津田山〜久地」駅間の第3種踏切で警報を無視して進入したトラックに下り電車が衝突しました。上り線を支障した下り電車に上り電車が衝突し、3名が死亡しました。この事故で踏切事故の多発が問題視され、踏切設備の改良や立体化など、踏切の抜本的な整備対策が検討され、当面の対策として踏切支障警報装置の設置が進められました。
1963年(昭和38年)11月09日 鶴見事故
(国鉄戦後五大事故)
東海道本線「鶴見〜新子安」駅間で、貨物線(現在の横須賀線線路)走行中の下り貨物列車が脱線し、そこに上下旅客列車が進入して三重衝突事故となりました。合わせて死者161名、重軽傷者120名という大事故となってしまいました。調査の結果、競合脱線が原因だとされました。
1964年(昭和39年)01月04日 立川駅タンク車衝突事故 立川駅で停車中の急行列車に、ガソリンを満載した米軍専用のタンク車が衝突して炎上し、乗客2名が重軽傷を負いました。火はまたたく間に燃え広がり、周囲1600平方メートルの建物が全焼しました。
1967年(昭和42年)08月08日 米軍燃料輸送列車衝突炎上事故 中央線「新宿駅」構内で、渡り線を通過中の中央線立川行き貨物列車(電気機関車EF10、タンク車18両)の側面に、中央線上りの浜川崎行き貨物列車(電気機関車EF10、ホッパ車20両)が、停止信号を示していた場内信号機を越えて衝突しました。脱線・転覆したタンク車から漏れた航空燃料に引火し、機関車とタンク車3両が炎上しました。この事故で死傷者は出なかったものの、激しい火災の消火と、炎上を免れたタンク車かの燃料の抜き取り作業や復旧作業に手間取った事から復旧が遅れ、中央線は丸1日ストップしたそうです。
1968年(昭和43年)07月16日 御茶ノ水駅電車追突事故 中央線「御茶ノ水」駅に停車中の豊田駅行き2239F電車(10両編成)に、後続の高尾駅行き2201F電車が追突しました。双方の電車とも5両ずつが脱線して負傷者210名を出しました。事故原因は後続運転士の制限速度オーバーとブレーキ操作遅れという人的ミスとされました。
1972年(昭和47年)03月28日 船橋駅構内追突事故 総武本線「船橋」駅で、7時21分頃、駅構内の信号機トラブルにより停車中の緩行線上り613C列車(中野行き、101系10両編成)に、後続の緩行線上り711C列車(三鷹行き、101系10両編成)が追突し、三鷹行きの6両目が脱線しました。幸い死者は出なかったものの、朝の通勤時間帯で乗客が非常に多かった為、重軽傷者758名という負傷者数では国内最悪の事故となりました。事故発生の直前、蕨変電所の送電線が断線した事により信号系が停電し、そのため先行の緩行列車は、船橋駅に停車中でした。信号系の停電で閉塞信号機、および場内信号機が消灯していて、通常では、後続列車もこれを確認して直ちに停止するところでしたが太陽の直射に幻惑されて消灯との判断が出来ず、後続列車の運転士は、信号系停電時にATS-B型の警報が確認ボタンを押しても鳴り止まない事を知らなかった為、鳴り止まないATS警報に気を取られて故障ではないかとATSスイッチを操作しているうちに、ブレーキ操作が遅れて追突したとされています。 (信号機消灯は停止現示とみなして直ちに停止するよう規定で定められています)
1972年(昭和47年)06月23日 日暮里駅構内追突事故 京浜東北線北行第1332C電車(桜木町発大宮行き:103系10両編成)が日暮里駅で客扱いを終了し、2分遅れで発車したところ運転台の戸閉表示灯が消灯したためブレーキを掛け、約90m進んだ所で停止しました。一方で、後続の山手線内回り第1370電車の運転士は(当時は線路保守のため、データイムは「田端〜田町」駅間で山手線と京浜東北線が同じ線路を走行してました。この運転方式は現在でもリフレッシュ工事と称される工事が行われる際に見かけます)一つ手前の鶯谷駅を1分遅れで発車し、日暮里駅に進入しようとする際、先行列車がホーム中部分に停車しているのに気付き、非常ブレーキを掛けたが間に合わずに追突し、143名が負傷しました。原因は山手線の運転士が場内信号機の制限速度を超過して運転した為で、この事故をきっかけに信号保安機器の検討がなされ、京浜東北線・手線のATC化が決定される事になりました。しかし車両面での準備が遅れた為、実施は、1981年12月6日になりました。
1988年(昭和63年)12月05日 中央線東中野駅列車追突事故 JR東日本の中央緩行線「東中野」駅に停車中の津田沼発中野行下り各駅停車(103系10両編成)に後続の千葉発中野行下り各駅停車(201系10両編成)が追突し、後続列車の運転士と乗客1名が死亡、116名が重軽傷を負い、両端の車両を除く18両が廃車となり、JR発足後初の死者の出た事故です。
1992年(平成04年)09月14日 成田線大菅踏切事故 JR東日本の成田線「久住〜滑河」駅間の大菅踏切で、遮断機が下りていた踏切に進入していた大型ダンプカー側面に千葉発佐原行き普通列車(113系電車)が衝突。先頭車は脱線大破し、電車の運転士が死亡、乗客65名が負傷しました。運転士は直前に衝突を覚悟し、パンタグラフ降下による電源遮断等の安全措置をとっていました。事故の原因は、過積載(最大積載重量の4倍もの山砂を積んでいた)のダンプカーが踏切の停止線でブレーキが効かず停止が出来なかった事に起因するものでした。
1997年(平成09年)10月12日 中央線大月駅列車衝突事故 中央本線「大月」駅構内で、下り本線を通過中の新宿発松本行き特急「スーパーあずさ13号」(E351系12両編成)の側面に、待避線から下り本線上に進入してきた入換車両(201系6両編成)が衝突し、特急列車(8号車は横転)の5,9号車と入換車両の前2両が脱線、特急の乗客77名が負傷しました。原因は、入換車両の運転士が、構内での入換作業のために自動列車停止装置(ATS)を独断で解除した後、下り本線の出発信号機の進行現示を入換車両の信号と誤認し、入換信号機の停止現示を見落とした為とされています。
1999年(平成11年)02月21日 山手貨物線作業員触車死亡事故 JR山手貨物線「大崎〜恵比寿」駅間で、信号保安装置の工事のため軌道内を資機材運搬中だったJR東日本の工事請負会社の作業員5人が、品川発小淵沢行きの臨時回送列車(回9531列車 EF64形電気機関車+お座敷客車「江戸」:計7両編成)にはねられ、5人全員が死亡しました。この事故は、請負会社の工事指揮者が作業現場に遅刻した上、大崎駅の信号扱所に列車の運転状況を確認せずにJR信号通信指令室(東京都北区)へ作業開始連絡をした事・現場点呼(ミーティング)をせずに作業員に軌道内への立入りを許可した事・列車見張員に臨時列車の記載された当日の列車ダイヤを渡さずなおかつ立哨位置を指示しなかった事・また列車見張員も列車の進来方向とは反対側にいた事が原因とされています。

 

2014年(平成26年)2月23日 京浜東北線回送列車横転脱線事故 JR川崎駅で2月23日午前1時ごろ、京浜東北線の上り列車の回送列車が横転する脱線事故が起きました。脱線した場所は川崎駅のホームから東京方面に200メートルほど出た地点。10両編成のうち1両目と2両目が横転、3両目は約75度傾き、線路の補修工事に使うトラック型の車両「軌陸車」に衝突しました。大破したのは9号車と10号車。モハE233-1477が編成に含まれるE233系1000番台177編成。線路上の資材運搬用重機(軌陸車9.5トン)は「既に運行を終えた別の路線と間違えて、京浜東北線の線路に重機を入れた」事が原因とされています。
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解説参照:ウィキペディア JR東日本 鉄道博物館
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